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詩篇19編

御言葉によって神の前に生きることの恵み

私訳と注釈

表題

指揮者に。賛歌。ダビデの。
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

13編と同じ。繰り返しになるが、「指揮者に」と「ダビデの」は同じ前置詞を用いているので、「指揮者の」、「ダビデに」と訳すことも文法的には不可能ではない。通常は、先の「指揮者に」は音楽的な指示であり、後の「ダビデに」は所属、つまり作者を示すと考える。 「賛歌」は「歌う、賛美する」という意味の動詞から出来た名詞。この詩篇はまさに賛美の歌である。

1節

天は神の栄光を述べ上げ、大空もまた彼の手の業を語り伝える。
もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。

「天」は通常複数形で用いられるので、「もろもろの天」(口語訳)とするのは決して間違いではない。天自体がいくつもの「層」から出来ていると考えられていたようで(参照、第二コリント12:2「第三の天」)、ユダヤ教の伝承では上は第七の天まであったとされる。ここでは、そのような多重性はあまり問題ではなく、天そのものを表している。定冠詞が付いているが、旧約全体では定冠詞付きで用いるのが主流だが、詩篇では逆に付いていないほうが多い。人間がいつも見ている、「あの天」ということだろう。

「述べ上げ」は「数える」とう動詞の分詞形だが、強意型なので「宣言する、(皆の前で)述べ上げる」という意味で使われる。分詞形は、時制的な意味は意識されていないように思う。むしろ分詞の男性複数形を使うことで、「天」と語尾が同じになっている(〜イームと〜リーム)。

「神」は「エロヒーム」ではなく、簡単な「エル」が使われている。異教の「神々」と同じになるのを避けているのか。あるいは最初の二語の語尾と同じになってしつこくなるのを避けるためかもしれない。また、前半と後半の長さを揃える効果もある。

「業」の前に接続詞「そして」がついている。「もまた」の意味もあるが、「業」につけるのは日本語としておかしい。前半と後半を結びつける接続詞と理解し、後半の主語である「大空」に「もまた」をつけることにした。「業」は「する、行う」という意味の動詞から出来た名詞で、「したこと」の意味。どの日本語訳も「手」と結びつけて「業」と訳している。

「彼の手」はもちろん「神の手」。「彼(神)の業」としても同じ事だが、あえて「手」を挟むことで、前半の「神の」と形を変えることができる、男性名詞が続いたので女性名詞を取り混ぜて単調さを避ける、前半と後半の語数を整える、などの結果が生まれている。「手」は神を擬人的に表現している。

分詞「語り伝える」は「宣言する、告げる」などの意味で使われ、前半の「述べ上げ」とほぼ同義。どちらも、神様の偉大さを人々に伝えていることを表現している。

「大空」も定冠詞付きで、前半と後半の結びつきを深めている。また、「語り伝える」と同じく「イー」の母音を含んでいる。ここでは「天」と同じ事を指している。

1節の構造

天は 述べ上げる 栄光を 神の
A   B     C   D
         業を  彼の手の  語り伝える 大空は
          C’  D’    B’    A’
前半・後半はきれいな並行関係になっている。

2節

昼は昼へ話を語り、また夜は夜へ知識を告げる。
この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。

この節も明確な並行関係を持つが、前節が順序が逆になる並行関係であったのに対し、順序も同じである。

「昼」は「日」とも訳せるが、「夜」と対比されているので「昼」としている。創世記1:5参照。昼と夜を並置することで、「いつでも」ということを表している。

「話を語り」はあまり上手な訳ではない。「話」は動詞「言う」の名詞形で、「言葉」(口語訳)のような抽象的な訳よりも、実際に語っているニュアンスを出したかった。「語り」は動詞「わき出る、ほとばしり出る」の使役形で、本来の意味は「吐き出す、注ぎ出す」だが、比喩的に「物語る」を意味する。神の御業が昼も夜も語り継がれている。

「告げる」は詩篇ではここだけで使われ、あとはヨブ記だけに出てくる動詞。

3節

話も無く、また言葉も無い。その声が聞かれることもない。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、

「話」は前節と同じ言葉。前節では「話を語り」と言っているのに、本節では「無い」という。前節の「話」が知識と並行して使われ、1節の「栄光、御業」と関係しているのに対し、本節では「言葉」や「声」と並行され、前者が「話」の内容・本質であり、後者は外面的な形式・音声であると考えれば理解できる。

「言葉」は複数形。神の言葉を意味するときは不通は単数形が使われる。ここでは音声として述べられる個々の「語」のことだろう。「天・大空」が伝え、「昼・夜」が語るのは人間が耳で聞くような「話・言葉」ではない。

「無い」は、最初の二回は同じ単語だが、三つ目は「何々無しに」という意味でも使われる。しかし、ここでは特に意味の違いは無く、変化をもたせるために違う言葉を使ったと考える方が良い。前二つのように「話」や「言葉」が無いのではなく、「聞かれること」が無い、と言っている点が異なる。

「彼らの」が指すのは、「昼」と「夜」、あるいは「天」と「大空」(どれも男性形、「天」だけが複数形で後は単数形)。彼らの「声」(音)は存在しても、人が耳で「聞く」ことはない。

「声」は「音」と訳しても良い。自然界が神の御業を語る声を人間は「音」としてしか聞くことが出来ず、「声」として理解する事ができない。

4節

彼らの語りは全地に出ていき、彼らのことばは世界の果てにまで。
彼は太陽のために彼らのうちに幕屋を置いた。
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神は日のために幕屋を天に設けられた。

「語り」は「線」という言葉が使われ、普通は「(測り)縄」と訳す。一文字変えて「声」とする訳もあるが、線のようにつながっている言葉と考えれば良い。

「出ていく」は一行目の前半(彼らの語り)につながっている。後半は動詞がないが、同じ動詞が省略されていると理解する。

「世界」は主に詩文で使われ、「地(全地)」と並行して用いられる。

「ことば」は前節までの「話」や「言葉」とは別の単語。女性複数形で「語り」が男性単数であるのと対称的。

「彼らの(うちに)」は「昼・夜」ではなく1節の「天・大空」を指すか、あるいは(世界の)「果て」を指す。

「幕屋」を字義通りに受け止めれば、古代イスラエル人の世界理解と考えることも出来るが、詩的表現であるので科学的に解釈する必要は無い。太陽の幕屋とは、太陽が沈んだ(「果て」)後で夜を過ごすところか、太陽が隠れる雲をイメージしているのだろう。

「置いた」の主語は神であると理解して良い。

5節

またそれは花婿が彼の部屋を出てくるようだ、
勇者のように道を喜び走る。
日は花婿がその祝のへやから出てくるように、
また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。

「またそれは」。「また」は接続詞「そして」が文頭に使われている。前節との結びつきを示す。「それ」は、従って前節の「太陽」を指している。

「出てくる」は分詞形で、主語は直接的には「花婿」。もちろん、花婿が出てくるように太陽も出てくる、ということだが。

「彼の部屋」は花婿が結婚式の前にいる場所なのだろう。太陽が昇り、その軌道を進む様を花婿や勇士に例える擬人法。花婿も、勝利を告げる勇士も、喜びつつ部屋を出て、喜びつつ道を走るように、太陽の輝きを喜びにイメージしているのだろう。

「走る」は分詞形ではなく、不定詞プラス前置詞。前半のように「勇士が道を走るように喜ぶ」としても良いが、「走る」ように「喜ぶ」というのは結びつけにくい。勇士というのは前述のように戦場から勝利の知らせを告げるために走って帰るすがたをイメージしていると考えられ、単に走るのではなく喜びつつ走っている、と理解する方が分かり易い。

「道」は通常使われる言葉ではなく、詩文でのみ使われる用語。

6節

その昇るのは天の果てから、またその巡るのはその果てまで、
その熱から隠れるものは無い。
それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。

「天の果てから」が原文では先に来る。これは通常の順序と逆の倒置法なので、日本語でも「天の果てから昇る」という通常の順から倒置法的にしている。「果て」は4節と同じ言葉。「天」も1節同様、定冠詞付き。

「その昇るのは」は動詞ではなく、恐らく分詞を元にした名詞。「その」は太陽を指す。

「その巡る」も同様に名詞。接続詞が付いているので、「また」を付け加えた。

「その果てまで」は、今度は同じ名詞の女性形が使われている。意味上の違いは無いが、文法的なコントラストとなっている。

「その熱」を良い意味に取るか、悪い意味に取るかによって動詞を「隠れる、免れる」と訳すか、あるいは「こうむる」とするかが変わる。作物のための天からの恵み、という天では太陽の熱は良い意味だが、屋外で働く者にとってはその熱さは時には敵となる。5節の喜ぶ様子、1節の「栄光、御手の業」という表現から、あまり否定的に受け取るのも難しい。ここでは動詞の基本的な意味にしておいた。

この節は太陽が天の果てから果てまで、つまり全天を移動し、世界中を照らす様を描いている。「地の果てから果て」すなわち「西から東」とのニュアンスの違いがあるのかは分からない。ここまでのところでは、神の栄光を告げる自然界(1節から4節)というテーマから、太陽の動き(5節、6節)というテーマに変わったようである。もちろん、「御手の業」の代表として太陽が上げられているのだろうが。しかし、太陽の熱が全世界・全人類を照らすように、主の教えの素晴らしさが全ての人に及ぶ、という理解をするならば、一旦太陽に移ったフォーカスが7節から再び主(の言葉)に移るのは決して唐突ではなく、準備されたものと考えられる。

7節

主の教えは完全で、魂を戻らせ、
主の証しは確かで、単純な者を賢くする。
主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

7節から9節までの6行はほぼ同じ形をしている。最初に「主の〜」が来て、どれもが御言葉に関わる。その後に形容詞もしくはそれと同じ働きをするものがくる。それから動詞の分詞形が来て、その主語は「御言葉」である。最後に名詞が来る。多少の変化はあるがほとんど同じで、6行に渡る並行法となっている。

「教え」は「トーラー」で、律法とも訳される。ここでは神の御言葉としての律法を指すと思われ、文書としての律法に限る必要は無いが、その一部、あるいはそれを離れての「教え」とするのは良くない。

「完全」は欠けの無い、すべてがそろった状態。人間の肉体ならば健康である状態を表す。人間の「完全性」は限界があるが、神の御言葉の完全性は本当に欠けがない、全きものである。

「生き返らせ」は、直訳すると「(魂を)帰らせ」。死から命へ、と理解して「生き返らせ」と訳す。生物学的な命ではなく、魂の死んだ状態にある者を神との正しい関係に戻らせ、本当の命に与らせる、という意味での「生き返らせ」である。

(主の)「証し」は奇妙だが、十戒の石版が入った箱を主の証の箱と呼び、十戒を「主の証し」と考えるなら、十戒を代表とする律法全体を指すと理解できる。

「確か」は動詞アーマンの分詞形で、意味は「確かである」。この動詞が「アーメン」の語源。

「単純な者」とは、良い意味にも悪い意味にも使われる表現。良い意味では、素直(特に神の言葉に)である。悪い意味では、間違った教えでも受け入れてしまうこと。「無学な者」「わきまえのない者」「無知な人」などの訳される。

8節

主の命令は正しくて、心を喜ばせ、
主の戒めは純粋で、目を明るくする。
主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

「命令」と「戒め」は、意味の近い言葉であり、訳すのが難しい。「命令」は詩篇にのみ出てくる名詞で、ほとんどが119編。語源となる動詞は「訪れる、集める、任命する」など様々に訳される。後半に出てくる「戒め」も命令を意味することがあり、律法を指すこともある。7節から9節では、個々の名詞の違いが重要なのではなく、全体として御言葉を表現しているので、ここでは暫定的に訳している。

「正しい」は真っ直ぐであるという意味。神の御言葉(命令)は全体が矛盾していない。どこを取って比べても同じ「真っ直ぐ」である。

「心」は人間の心、特に御言葉(命令)を聞いて従う人の心。正しい命令に従うことは喜びである。しかし、自分の心がねじ曲がっているときに、正しい命令が窮屈に感じる。

「純粋」と訳した言葉は次節の「清く」と同義語で、後者の方が幅広い意味で使われる。

9節

主への恐れは清く、とこしえまでも堅く立ち、
主の裁きは真実で、ことごとく義しい。
主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、
主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

「主への恐れ」だけが直接に御言葉を言及していないが、御言葉に対する人間の姿勢と考えれば無関係ではない。

「清く」は前述のように、幅広い意味を持つ。物理的には精錬された金のような純粋さから、宗教的には儀式における清さをも指す。

「堅く立ち」は「立つ」という動詞の分詞形。しっかりと立って動かない様子。「変わらない」と訳しても良いが、イメージとしては少し違う。

「さばき」も直接的には御言葉ではないが、律法に従って裁きが行われ、また神の言葉によって神の裁きが告げられるので、ここでは御言葉を表す表現の一つとして使われている。これだけが複数形で、あとに出てくる分詞も複数形となっている。

「真実で」は分詞ではなく形容詞。7節の「確かで」と語源は同じ。

「義しい」は「正しい」と類義であるが、義という言葉と関連する。「ことごとく」は「共に」という意味で、直訳すれば「それと共に」。一体性を意味するが、ここでは御言葉の全ての部分について述べている。

10節

それらは、金よりも、多くの純金よりも慕わしい、
また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、
また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。

「それら」は前節までの御言葉の様々な表現を受けて複数形で御言葉を指している。

「金よりも、多くの純金よりも」のような二重の比較は、詩的な表現としては珍しくない。二つの内、後者の方がより良いもので、この場合なら御言葉の素晴らしさがより強く述べられている。

「蜂の巣のしたたり」はミツバチの巣から蜜がこぼれ落ちる様。取れたての蜂蜜と言う。なお、この部分だけは比較を表す前置詞が無く、恐らく省略されているのだろう。

11節

また、あなたの僕はそれらによって教えを受け、
それらを守ることで報いは多い。
あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。
これらを守れば、大いなる報いがある。

「あなたの僕は」で始めて詩人自身が登場する。もちろん、前節の「慕わしさ」も詩人にとっての慕わしさだが、ここでは直接的に詩人のことが述べられる。第一に「僕」であること。王であっても、神の命令に従う存在である。第二に、神との関係において生きていること。神を二人称で表すのもこの詩篇では最初のことである。ここまでは第三者的に神の素晴らしさ、御言葉の素晴らしさを叙述して来たが、ここから後半の祈りへと繋がっていく。

「教えを受け」は「教える」という動詞の受動形。教え、戒め、指示を受ける。同音異義語で「輝く」という動詞もあり、もしそれだとすると、「光を受ける」あるいは「輝かせられる=輝く」とも考えられるが、7節にもある御言葉の「教え」性から「教えを受ける」の方が適切。

「守る」は戒めに従い、律法を守ること。そうしたときに僕は報いを受ける。

「報いは多い」よりも「大きい」のほうが日本語としては良い気がするが、原文では「多い」。

12節

あやまち! 誰が理解できるでしょう?
隠れたことから私を赦してください。
だれが自分のあやまちを知ることができましようか。
どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。

「あやまち」が倒置されている。複数形であり、一つの過ちとか、一般的な意味ではなく、様々な過ちを思い出している。

「理解する」は、神の教えが無ければ人間は自分の罪にも気が付かないことがある。

「隠れたこと」は動詞分詞形で、最初の「あやまち」と同じく女性複数形なので「隠れた過ち(罪)」と理解できる。

「赦してください」は「きよくする」という動詞の強意形で「無罪にする」という意味もある(出エジプト20:7)。

この節は19編のなかでは比較的短い。倒置法や命令法などが使われ、せっぱ詰まった訴えかけである感じを受ける。11節まで淡々とした様子で述べてきたが、ここにきて押さえられなくなり、心を注ぎ出して祈っている。

13節

また、高慢からあなたの僕を守ってください、それらが私を支配しませんように。
そうすれば、私は全くなり、多くの罪から赦されます。
また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、
これに支配されることのないようにしてください。
そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、
大いなるとがを免れることができるでしょう。

「高慢」(の罪)は大変恐ろしいものである。ここでは複数形で書かれている。口語訳では「故意の罪」と訳しているが、意訳ではあるが考えさせられる。

「守ってください」は「引き離す、近づかないように守る」という意味の動詞。この罪に人間は陥りやすい。神の守りが必要であり、また詩人は再び自分を「あなたの僕」と呼びへりくだっている。

「支配しませんように」は三人称の命令形で、この訳のように祈願とするか、口語訳のように二人称に対する願い(命令、「してください」)とする。高慢になると、それに支配されるようになる。

「全く」は7節と同じ言葉。御言葉と神の守りによるときに人間は「全き」姿となりうる。

「赦されます」は12節でも使われている動詞。「きよめられる」と訳しても間違いではない。

ここに出てくる「罪」(ペシャア)は「神に逆らう罪」。罪の用語はいくつかあって様々な側面を描いている。高慢であるとき、神に逆らうものとなる。

14節

私の口の話すことと、私の心の思いとが、あなたの前で、受け入れられますように、
主よ、私の岩よ、私を贖うお方。
わが岩、わがあがないぬしなる主よ、
どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが
あなたの前に喜ばれますように。

「口の話すこと」は、2節、3節で使われている「話」と同じ語源の言葉で、動詞「言う」から派生した名詞。特に口に出して言うことを指す。「口の言葉」でも良いと思う。

「心の思い」は「口の話すこと」に対して、口には出していない、心の中の言葉。「思い」は「黙想」という意味だと考えられており、語源となる動詞は「言う、ぶつぶつ言う」という意味で、ぶつぶつと呟くことから心の中で思うという意味で使われるのだろう。「黙想」という意味では、詩篇の中で音楽用語として使われている。(9:16参照)

「受け入れられますように」は直訳すると「受け入れられる(あるいは、喜ばれる)ようでありますように」。形の上では祈願であるが、神に対するお願いである。神に喜ばれるような言葉や思いであることは自分で出来ることではない。神が受け入れてくださることが前提である。

「我が岩」は神の守りを象徴する表現。また「私を贖うお方」は罪からの救いを意味する。特に「贖うもの」はダビデの祖先であるルツの物語の中でテーマとなる用語である。

構造

1〜6  大自然に表された神の栄光
   1〜4  無言の言葉による証し
   5〜6  その代表である太陽の輝き
7〜11 御言葉の素晴らしさ    7〜9  御言葉の様々な素晴らしさ
  10〜11 御言葉の詩人にとっての素晴らしさ
12〜14 罪からの守りを願う祈り

メッセージ

大自然は神の栄光を表し、御言葉は何よりも慕わしい素晴らしいものである。この神に従い、御言葉によって生きることを求めたい。守り主であり贖い主であるお方の前に寄りすがるときに、神に受け入れられ、喜ばれる、その意味で「全き」ものとされる。



(c) Tomomichi Chiyozaki 千代崎備道 2003-2004
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